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[转帖] 中国刀術と日本刀術

中国刀術と日本刀術

原文在下面

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本多雄志

暨南大学历史系研究生



武术与其历史性
我对于传承在中国的“双手刀”感兴趣的是已经大略二十年以前,看过当时兰州大学的历史系教授(现暨南大学历史系教授)马明达教授写的一片论文“历代中日两国刀剑的交流”以后的事。当时,作为体术的中国武术(拳法)在日本受年轻人的欢迎,我也顺应那个时代的潮流而广泛射猎很多中国武术和日本武术,但当时介绍在日本的所有的中国武术就是民间交流的结果而已而没有个人武馆以外的东西。所以我看上述的论文以后,才注意到武术这个题目含有的历史性。

现在要约其内容的话,当时在中国海岸沿线活动的倭寇(他们平时进行贸易,但交涉决裂时成为盗贼),他们的主要武器就是长刀,明军为镇压倭寇而苦思焦虑时,戚继光统率很有名的戚家军而成功镇压倭寇的暴动。但是他能看到双手刀的有效性而采用其武器为了戚家军。然后长刀就成为能给明代史划出的一大特征。而且日本刀惹好事家的注目,作为非常贵重的美术品,大量的日本刀被进口到中国。

马教授的这片论文就是,当时的中日武术交流上,不可缺少的杰出的论考而这范围也从刀剑的硬件侧面、其技术侧面到其经济侧面,收罗所有的侧面。这次,我想以比较中国刀法目录和日本刀法目录而来考察长刀的软件方面,而给长刀的理论背景,身体文化的侧面奠定基础。结果,从两国的刀术技术方面来要看当时的社会样式,战斗方式和社会习俗的变迁。


中国刀法与日本刀法(硬件和软件的问题)

从日本传到中国的长刀术,据我看来,明代和清代时,已经相当成为中国化。但是,虽然已经中国化的倭刀术,还是保存下来日本长刀的原来的基本用法。这就是因为他们用的长刀达到五尺的大刀,而且人的身体充其量差得10-20cm,所以技术必然不超过一定的限度。
所以如果硬件上没有变化的话,其技术的大部分还保存下来,可以这样考虑。日本的刀法,随着时代的变化和要求,尤其软件方面的要求的变化,硬件也越来越变化过。然后随着硬件的变化更进一步促进软件的变化,再构成,可以这样认为。如果那样,在日本失掉的长刀法,为什么在中国保存下来?这理由应该有几点。
1
1560年以后,日本的战争时,基本上火器成为主武器。以后火器取代长枪和长刀。
所以16世纪后期,日本刀已经成为越来越短而只用白刃战而已。但中国的战争形式还冷器为主的。
2
江户时代以后,虽然已经没有大战争,但是日本武士阶级,生活上,不断地佩带刀。可是战时的长刀不方便携带。反而中国没有这种带刀的习惯,结果刀彻底被认为战时的武器。
3
日本的制造刀的技术,以镰仓时代为顶点,已经非常发达。所以更新改变刀的形式也不太难。反而在中国,软件方面也没有变化的必然,而硬件的制作条件被限制。



这种几个侧面为主,传到中国的长刀术维持原有的硬件状态,结果原有的软件也自然地保存下来。
愈大猷编集的《武备志》里收录的『隠目录』,这就是日本室町时代末(相当于中国的明代1550年前后),可能作为日本刀法目录来说,最早的目录之一。但该文件的解读还不够。而且这个刀法的技术也,有时因为秘传,有时因为失传,其维持原有的姿容不太清楚。


新陰(影)流与单刀法选的比较
现在在日本流传的刀术,大概江户时代以后成立的,所以室町末期的长刀术几乎传不下来。传到中国的“陰流”本身也现在不能看见其原来的姿势在日本。但是以“陰流” 为祖,然后成立“新陰流”。幸亏的事,现在,这个“新陰流”的目录于江户时代初期被写,然后到今天保存下来。这个目录里的刀已经成为相当短而适应当时的时代,但是“新陰流”的成立和“陰流”的成立差的不太长时间。所以,看这个目录起来,“新陰流”目录还含有“陰流”原来的味道彩色,可以这样说。
反而,中国的长刀术的由来是否“武备志”所记载的“陰流”目录,这就是不一定的。但是的中日交流很频繁,所以,所谓“陰流”以外,还有跟其它的流派交流的机会也不能否定。可是,也不敢说,两者之间根本没有关系。所以,在这里我想比较到现在传到来的“单刀法选”和“新陰流”目录,这两个古传书而导出来两者的DNA的共同部分。



定膝刀势―――新陰流普遍的出势

今天的日本剑道,直立脊梁骨而把自己的身体“前面”转向对手来采取开始姿势,反而古式的向前倾来采取准备式,把自己的身体“侧面”转向对手来采取开始姿势而保持距离对手。这就是长刀术和长枪术共同的出式,尤其对对手的直线性刺的攻击。这出势的目的就是,尽力要减少自己的表面积。这个道理,中日刀法之间没看见不同。(图)
朝天刀势―――新陰流普遍的出势

   日本“新陰流”的出势,在肩膀部缩缩地预备架势,而中国的,到自己的头部上面,升起来的大架势。但是,对手从前面刺进来时,用劈从上砍掉下来,然后要得赢,这种想法本身就是同样的。同时,从这个出势转下过来到后面,在自己的下后面采取预备式,这就是下一个“撩刀势”。这两个招法是表里一致。(图)
右撩提刀势―――一刀两断的出势

单刀法选里,作为“倭之绝技”被赞扬的这个刀势也在日本古流刀术常常看见的。维持原有状态而传到中国。一边从下面把刀跳起来而得赢的思想。这个思想也中日同样的。(图)
单提刀势―――山霞
这个姿势,以左手塞对手的眼界而欺骗距离感而后立即刺,这样的技术。其前的“狮子奋迅”把肩膀里隐藏的短刀好像撒手剑一样投起来,就那样地塞对手的眼界。看中国目录时,“飞刀势”里看见同样的主意。(图)

低看刀势&上弓刀势―――长短一味

这个技术也,中国和日本的想法完全一样。采取较低地预备式而把身体里隐藏的长刀突然把身体转换左右而逼进对手,这样的办法。
迎推刀势―――・・・

最后,我想把战头的最终局面,即决定输赢的绝招比较。于是,怎么应得胜利的想法,中国和日本两个目录之间会看见不同的地方。中国的绝招就是“迎推刀势”为主的刺技术,反而日本刀法就是,基本上,以劈斩的方法。这个区别,可能,按照刀的长短而来,出现的现象。穿战时的服装而抡起来长刀的话,要相当多的时间和膂力。所以以长刀时,必然地直线性的攻击技术为主的。但是,江户时代的社会已经安定下来,武士们也穿便服而且刀也越来越短,只有两尺多。穿便服和带较短的刀,这种状况下的话,可以边跳起开来左右,边把圆周运动转到“劈”,就是比较容易的。随着刀越短,刺技术可能成为并不有效,这个也是一个原因。而且江户时代以后就是基本上很平安的时代所以要相应的对手不是长枪为主的长兵而是只被设想互相拿刀的战头。可能日本的古长刀术也应该刺为主的技术体系。在这儿我们应该看随着时代,生活习俗,假相战头样式来,技术不断地变化。

500年以前的日本长刀术,进入江户时代,慢慢地变质了。时代已经姑且确保和平。长大的刀术已经不必要,而且因为火器在战争里广泛地使用,长枪也不是战场的主角。长大的武器,连同火器的登场,徐徐地消失踪迹,连同时代的安定,刀越来越短,服装也越来越轻装。现在的日本刀法大部分于这样的时代成立而传下来的。
今日,还在留下500年前的战术的中国长刀术含有所知道当时日本的战头方式和习俗的可能性。又研究日本刀术的技术变迁时,或调查其初期发生过程时,非常主要的资料,而内含很多历史问题。中国长刀的继承就是,从日本武道史的观点来看,非常特别的存在,而遭到了意想不到的日本武术的在中国的继承时,我们只好发出惊骇的声音。

理论背景
阴阳五行与太极图就是,除了在中国以外,不用说,在其影响下的日本,更加一步说的话,东洋普遍的基础范畴。从天文、气象、运气,到建筑、都市计划,风俗习惯,各个方面都看见其影响。日本人研究者吉野裕子所写的“阴阳五行与日本民族”里有如下的记载。
“古来,日本的执政者,仿照中国,很热心地希求顺当的四季的推移。把一年的推移不让自然的状态而放置,反而人们积极地用五行法则而促使顺利的一年的推移。总而言之,用人为来促使自然,这就是日本的祭祀和祭神仪式习俗的基本规例。同时,对灾害的巫术也到处用五行法则。”
日本武术,尤其刀术也不例外。比如,宫本武藏的“五轮书”里有如下的记载。“五方之出势的事  五方的出势就是,上段,中段,下段,右边腋下,左边腋下,这个五个也、出势分开五种,但全部都为了斩而已也。除了这个五个出势以外,没有其他的。(中略)上中下就是本体之出势也。左右腋下的应用的出势也。(中略)此道大事曰,出势的顶点就是中段。中段,出势之本意也。兵法大看。中段大将之坐也。次于大将后,四段出势也。(后略)”。     
看如上,宫本武藏也分类刀法的五个出势。他的想法的主体,也许不在“阴阳五行思想”之上,而在密宗的“五轮”思想上。但是现在这两者之间的区别没那么重要。主要的事所有的文化里面有这个五分割的范畴。后世的日本刀术很多流派也把基本刀法分开五个,有的流派甚至分类-木火土金水-这种五个分类。

但和纸上的学问不同,宫本武藏那样的日在战场的武术家来说,事态不简单。他们的胜负决定于一瞬间。而且他们的竞争生活非常严酷,败北相当于死的状况的话,战头的办法也不得不备相当合理性的系统。这就是不是因为理论上的要求,而是宁可实践上的要求。如果这五个出势互相零乱地存在的话,什么时候采取上段,怎么状况时采取下段,根本没有规律而不得不无限地发散。这样的状况下得赢是不可能的。
那,这个五个出势的统一原理是什么?从日本的刀法来看地结论来说,这个五个出势意味着以自己为中心的圆周运动的五个固态,又意味着,原则上,从自己为中心的360度的球体的什么角度,什么方向也可以转动刀而攻击。把全空间用五个座标分别表示而分类,这是空间的用五行概念理解办法,即五个出势就是全体性的五个象征而已。

中国和日本,当然其风俗习惯、生活习惯不一样,但是他们的基本思考范畴是同样的。因为东洋的基本思考范畴是同样的,结果虽然各个地区有各个地区的特征,但是其基本想法有很大的共同性。武术也同样的。结果其身体的操作方法也必然地各异,但其战术思想,理论系统必然地有类似的性格。
比如,中国的形意拳也分类其最基本的套路成为“五形拳”。这是非常典型的“五行”的影响下成立的一个拳种,但是只理解形意有五个基本办法而已的话还不够。我们应该要理解,这五个分类以什么样的原理下被分类了,或怎么被统一。换句话说,要追求其思考的原理,然后过了什么样的过程而分开五个,我要理解的是该流派的创始人的思考模式。不是那样的话,武术只是偶然性支配的,生活底层的暴力行为而已的。
虽然这个“阴阳五行”理论也完全无缺的东西。实际上,这种范畴以古人的主观导出来的东西,而并不能说它具备相当高的客观性。但是东洋的生活,文化,习俗等等所有的社会生活,如上所见的吉野裕子所说那样,存在于这个思想的影响下的话,没用这个滤器而想理解东洋文化,这就是漂浮不定的文化理解而已的。“阴阳五行”理论的世界观不能说十全、必要十分的客观哲学(科学)。这思想还有很多主观性。但,的确因为那样,在这里具有现象的多样性。



体术与武器术
把体术与武器术考虑作为表里一体,这种想法就是东洋武术的一大特征。中国拳法也日本柔术都只抽出体术时,那个武术(战术、战略)的思想理解不了。但是学各个流派的主要武器时,我们才明显地知道作为其基本运动的体术的位置。
看中国武术时,一般来说,以长枪为主的技术而构成体术,这反应着在战场,长枪的位置比较高。反而日本的武术,以刀为主而构成体术。
如以前所论述那样,作为主要武器,明军备置长刀,但用这种长刀时,也应该有一种基本运动。这是什么?
长刀基本上作为长枪的刺技术和长刀的横竖地砍倒的技术连在起来的综合体出现了。这个技术体系比只有“刺”的长枪更具有丰富的变化。而且刺,劈刀劈下去,劈刀劈上来,左右横着砍倒等等,应该作为一种圆运动培养出来。可是这个圆运动形式在通备、通臂拳里可以看见。而且,又不可思议的事,中国长刀的继承,基本上这两门的传承里保存下来的。
尤其,其最重要的基本运动“单劈手”,就是训练全身体的圆轨道的培养过程,而其运动轨道与刀术的运动轨道完全一样的。看起来,与其刀术与体术分别成立,然后融合起来,不如这个刀法关系到“通备”,“通臂”的成立,或作为刀法的基本功,这种体术被要求,这样的可能性也否定不了。
更加一步,要注目的事,通备、通臂这个流派都以猴子成为身体操作上的模特。并且日本刀法“陰流”也,它的象征是猴子的。中国的状况在广州暨南大学历史系马明达教授的论文“从通臂到通备”(『武学探真』收)里有很详细的记载。日本的陰流的话,愈大猷所写的“武备志”里的“隠目录”里,猴子拿刀而表演刀法,所有象征性很明显的。日本的刀术和中国的体术,历史上在哪里是否有交流,现在还找不到资料的证据。但是,看起来,所有的中国武术里,通备通臂(劈卦)这种拳和所谓太极拳为代表的内家拳之类或和少林拳为代表的外家拳之类,基本想法根本不一样。
反而现在的日本剑道也当时的古刀法的术理不一样。用现代剑道的曲柄运动的话,实际上,连普通的刀也操作不了,何况用五尺的大刀的话更用不了。所以通过现代的剑道来看古代刀法,基本上没有意思。如果这样考虑的话,为了用这么大的刀,不得不要求练刀时最合适的练习办法。


结论
只限于如上看,日本刀法“新陰流”目录与在中国传到来的“单刀法选”之间有彼此息息相关的事,不能否定。但根据这个类似性,就导出来这两个流派就是亲戚关系,这个结论到不出来。因为,当时的日本刀法资料很少,但是总之如上看的刀法不是“陰流”特优的,而日本刀法普遍看见的。到今天传到来的各个流派的传书或继承里也同样的技术或主意,其差别,通观而说,只来自文化样式即生活样式,服装,武术环境,战争样式等等的个体性、个体差而已的。
日本刀法个流派的成立大概在室町中期到末期的事,所谓被称三大流派都有各种各样的开祖传说。有的天狗教给他们的流祖,有的猴子,有的蜘蛛等等。他们可能从中国,朝鲜过来的人。戚继光的“纪效新书”的成立是在那以后不久的事情。所以传到中国的日本刀法就是第二代或三代的黎明时期的内容。
但是有关刀法,戚继光本身苦于倭寇对策,其结果而决定在戚家军具备长刀。如果这样的话,借如上几个例子而全豹这时代的中日武术交流,与人的交流一同,相当发达。
现阶段,十四世纪中末,两国的武术交流之中,只确认以日本刀法对中国的影响比较大的状况就不得不满意。但是将来得机会的话,要更详细地研究两国刀法交流的过程。


武術とその歴史性
私が、中国に伝わる“双手刀”に関心を持ったのは既に20年ほど前の、当時蘭州大学教授であった馬明達教授の“中日刀剣交流の歴史”からである。体術としての中国武術は当時日本ではブームでもあり、私も又そのムーブメントの中で、多くの日本武術、中国武術を渉猟していたのだが、どれも民間の交流に過ぎず、町道場以上のものではなかったのだが、上記の論文で初めてこの武術というテーマの持つ歴史性というものに、今思えば目を開かれたのである。

その内容を要約すれば、当時中国の海岸沿いで活動した倭寇(平時には貿易商であり、交渉決裂時には海賊または盗賊と化す)の主要武器が日本長刀であり、当時の明軍もその鎮圧に苦慮していたときに、戚継光がその対策を練り、有名な戚家軍を率い、その鎮圧に成功するのである。しかしながら、その双手刀の有効性に目をつけた戚将軍は自軍にその武器を装備することとなった。そしてそれ以降の明軍の時代を画する一大特徴は日本刀の装備とその自家製造にある。又それは好事家の目を引き、非常に貴重な美術品としても大量の日本刀が中国に輸入されることになったのである。

  馬教授のこの論文は当時の中日武術交流を見るうえで欠かせない、すぐれた論考であるが、その主題は日本刀のハード的な側面とその政治性・経済性から実戦に至るまでの幅広いものであったが、今回この小論では私はそのソフト的な側面に焦点を当て、両国の刀術の技術的な側面から、当時の社会様仮想戦闘様式、社会文化の変遷を見ようという試みの出発点としたいと思う。





日本刀術と中国刀術~ソフトウェアの問題~
日本から中国にわたった長刀術は、既に明代から清代にかけて、相当中国化していると見られる。しかし一方そのような中国の倭刀術ではあっても、全長が5尺にいたろうとするものであれば、人の体はせいぜい10~20cmの違いでしかないのであるから、必然的にその技法はある程度限られてくる。したがってハードが変化しない以上、その技術は相当程度保存をされていると考えてよかろう。日本の刀術の変化は時代の変化とともに要求されるソフトの変化に応じハードが変化し、さらにそれに応じた技術が再構成されていったと見られる。が、中国には比較的古い日本長刀法が現在に至るまで保存されている。日本では既に失われた長刀がなぜ中国では保存されたのであろうか。それは下記のいくつかの点に集約することができるであろう。

1 1560年以降、日本の戦争時には、基本的に火器が主力となり、以後火器が長槍や長刀に取って代わったこと。したがって16世紀後期、日本刀法は徐々に短くなり、接近戦用の武器になったこと。一方中国ではそれ以後も比較的長大な武器が使われ続けたこと。2 日本では江戸時代以降、既に大戦争はなくなったが、日本の武士階級は刀を常に身に着けるという生活状況があったが、そのため日常非常に大きな長刀は携帯に不便であった。中国にはそのような習慣はなく、刀法はあくまで戦時の武器と認識された。

3 日本では刀の製作技術が鎌倉時代を頂点として非常に発展した。そのためモデルチェンジは比較的容易であったこと。しかし中国ではそのようなソフトに応じるハードの製作の条件が限定されていたこと。

中国にはそのようなソフトに応じるハードの製作の条件が限定されていたために、ハードは明代当時のそのままの状態を保持したこと、したがってそのソフト面もまた保存されてしまったということであろう。

愈大猷の「武備志」に収録された“影目録”は日本の室町末期、中国は明代(1550年前後)に記された、おそらく日本刀法の目録としては最古のものであろうと思われるが、その解読は未だ満足行く形ではできておらず、又その技術的な解説も秘伝のためか、あるいは失伝のためか、その姿は明らかでない。



新影流と単刀法選の比較
現在日本に伝わる刀術はその殆どは江戸時代以降の成立で、室町末期の長刀術は殆ど残っていない。中国に伝わった『影流』も現在その元来の姿を見ることはできない。しかしその流派を祖としてその後、新影流が成立する。この新影流は幸い初期の目録が残されている。この目録では既に刀は短くなり、時代に適応しているが、まだ陰流の成立から2代目のことであり、元来の姿も又色濃く残っている。一方現在の中国長刀術が必ずしも武備志に記述された影目録より由来するかどうかは定かではない。しかしながらまったく影響がないかといえばそうもいえない。したがって、ここでは今日伝わる中日両国に伝わる古伝書を比較してみることで、それぞれの技術がどの程度共通するのかを調査してみたい。



定膝刀勢――― 普遍的に見られる構え

今日の剣道が背骨を直立させ、体の正面を相手に向けて立つのに対して、古式のものは背骨を前傾させ、体は側面を相手に向けること、相手との距離を遠くとる点、に於いて同一の原理である。

朝天刀勢――― 普遍的に見られる構え

 日本の構えが肩口に小さく構えるのに対して、中国のものは頭の上まで刀を掲げる大構えである。しかしながら、相手が入ってくる際に上から叩き落し勝ちを得ようとする発想は同一である。また同時にこの構えから、後方を通って下から跳ね上げる方法もある。これは下記の方法と表裏である。

右提リョウ刀勢――― 一刀両断の使太刀

 単刀法選に倭の絶技と称えられたこの刀勢はやはり日本の古流当術に普遍的に見られるものである。中国にもそのまま伝わっている。

単提刀勢――― 山霞の打立ち

 この姿勢は左手で相手の目を防ぎ、距離感をごまかし突くという技であるが、その前の獅子奮迅が肩口に隠した短刀を手裏剣に投げ打ち、投げ終わった姿勢でそのまま目をふさぐとも見られる。中国側は飛刀勢にそのアイデアが看られる。

低看刀勢&上弓刀勢――― 長短一味

これも日中まったく同じアイデアであり、低く構え体に隠した刀を、体を左右に一瞬に入れ替えることで相手に迫る方法である。

迎推刀勢―――・・・

ここでは戦いの最終局面、つまり決め技について比較したい。すると、どのように相手に致命傷を与えるかのアイデアはこの両目録において違いが見られる。中国のそれは迎推刀勢を中心とする突き技であるのに対し、日本は振り下ろして切るという方法である。これは刀の長短に応じてその方法が変化したものであろう。戦時の服装で大刀を振り回すには相当の時間がかかるが、平服で短い日本刀を使う場合には左右に開きつつ円運動を切る力に変えることが比較的容易であるからであろう。短いゆえに又突きにはそれほど威力を発揮しなかったということもあるかもしれない。江戸期以降の日本刀法では既に突きの技術無論主要技術であったことはまちがいないが、一般的にはやはり切るという動作にシフトしていっているように見られる。これは平和な時代にその対応すべき相手が、槍を中心とする長兵ではなく、お互いに刀を持っての戦いしか想定されなくなったためであり、おそらく日本の古長刀術も突きを主体とする技術であったことはほぼ間違いない。ここには時代の違い、生活、仮想戦闘様式、ソフトの違いがその技術に如実に反映されたものと見られる。

500年前の日本長刀術は、江戸期に入り完全に変質した。時代は平和になり、長大な刀術は必要ではなくなり、又それ以前に鉄砲の出現により、長槍も必要ではなくなっている。長大な武器は火器の登場とともに完全に姿を消し、時代の安定とともに刀も短くなり、服装も平服化してきた、現在残る刀法はすべて(大部分)そのような時代に成立伝承されたものである。今日、その実用はともかく、500年前の戦術を色濃く残す、中国の長刀術は当時の日本の戦闘方式を知る大きな手がかりとなりうる可能性がある。また今日の日本刀術の変遷、あるいはその際初期の発生過程をたどる上でも非常に貴重な資料である。そのような刀術はどのような戦闘環境、服装、仮想敵はなんなのか等、多くの歴史的問題をはらむ。日本武道史にあってもきわめて特異な存在であり、思いもかけぬ日本武術の伝承が中国に行われていたことにまた驚くのである。

背景となる理論

陰陽五行と太極図は、中国にあっても、また無論その影響下にある日本においても、更にいえば広く東洋の基礎的な範疇である。天文、気象、運気、から建築、都市計画、風俗習慣にいたるまであらゆるところにその影響は見られる。日本人研究者吉野裕子の“陰陽五行と日本の民族”に以下の記述がある。“古来、日本の為政者は、中国に習い、順当な四季の推移の祈求に熱心であった。一年の推移を自然に任せて放置せず、人間の側でも五行の法則を使って、順調な推移を促す、要するに自然の移り変わりに対する人為の促し、それが日本の祭りと歳時習俗の決め手になっている場合が非常に多い。同時に災害に対する呪術にも、五行の法則が至るところに使われている。”とあるが、日本の武術、特に刀術もその例外ではない。 

たとえば宮本武蔵の五輪の書に次のような記述がある。「一、五方の構えの事  五方の構えは、上段、中断、下段右のわきにかまゆる事、左のわきにかまゆる事、是五方也。構五つより外はなし。(中略)上中下は体の構え也。両脇はゆふの構え也。(中略)この道の大事にいはく、構えのきわまりは中段と心得べし。中段、構えの本意也。兵法大きにして見よ。中段は大将の座也、大将につぎ、あと四段の構え也。能能吟味すべし。」

上記の引用に見られるように、武蔵は構えを五つに分類している。彼の思想の主体は、或いは“陰陽五行思想”ではなく、その書名が示すように密教の“五輪”思想にあったかもしれないが、現在この両者の区別はあえて強調しない。問題はあらゆる文化的側面において五つの分類の範疇が適応されていたこと、そしてまた彼もその範疇の中で思考を進めたことが確認できればよいのである。後世の日本刀術の流派にも基本刀法を五つに分類し、中には、そのまま木の太刀、火の太刀、土の太刀、金の太刀、水の太刀と分類する流派もある。

しかしながら紙上の学問と違い、武蔵のような常に戦いの場にあった武蔵にとって事態はそう簡単ではない。武芸者武蔵にとって、五つの構えはランダムに存在するはずもなく、それは一つの体系性を持たねばならなかった。それは単に理論的要請というよりも、これらがそれぞればらばらにあったのでは、どのようなときに上段に構え、どのようなときに下段に構え、とその分類は無限に発散してしまい、実際戦いの際には役に立たないのである。結論から言えば、それは原則自己の身体を中心とした360度の球体のどこからでも刀剣を出し、攻撃が可能なことを意味するのである。全体を仮に5つにプロットし、固定化して分類した、即ち全体性の5つの象徴に過ぎない。

中国と日本はその風俗習慣、生活習慣の違いから、その身体操作方法も必然的に異なってくることになるが、その戦術面は同じ理論というか範疇概念でとらえるために、その本質は必然的に似通ったものとなる。たとえば形意拳においてもその分類を五行拳ととらえるが、これもまたこれを5つの方法ととらえるだけでは不十分であろう。その5つがどのように分類され、かつどのように統一されるのかを考慮しなければならない。或いは原理は1つであり、それがいかに5つに分割されるか、その過程をとらえなければならない。  

このような分類は必ずしもそれが十全、必要十分であることを意味しない。それゆえに各流派によってさまざまな五行理解が存立しえるし、そこに多様性の生じる可能性があったのである。



体術と武器術
体術と武器術とを表裏としてとらえるという思想は東洋武術の一大特徴である。中国拳法も日本柔術も、体術だけを取り出した場合には、その武術(戦術、戦略)の思想は理解しにくい。しかし各流派の主要な武器を学ぶとき、我々は始めてその基本運動としての体術の位置づけに気付くのである。

中国の武術の場合、一般には槍を中心に技術が構成されることが多く、これは戦場において槍の役割が非常に大きかったことを反映したものであろう。逆に日本の武術は主に刀法を基礎に組み立てられていることが多い。

先に明代の主要武器に長刀が配備されたことをあげたが、この刀法ついても当然その基礎運動となる体術はあるべきであろうが、それは何なのだろうか。

長刀は基本的に槍の刺しの技術と刀の振り払う技術の総合体として現れるが、これは槍のような刺すだけの技術よりも一段と変化性に富むことになる。これは振り下ろす、振り上げる、なぎ払うという一種の円運動として養成する必要があるのだが、この円の運動形態が中国の通備・通臂劈卦拳の基礎運動に見られる。ところがこれも不思議なことに、中国の双手刀の伝承は通備・通臂劈卦門においてのみ行われていることである。特にその最も重要な基本功である单劈手はまさにこの体全体を円運動として訓練する養成過程であり、その運動軌道は刀の運動軌道とまったく同一である。これはこの刀術と体術が別々に成立し、その後融合したというよりも、むしろ劈卦拳の成立にこの刀法が深くかかわった、或いは刀法の基本功として、このような体術が要請されたのではないか、とすら思えるほどの同一性である。

さらに通備、通臂がともにサルをその身体操作上のモデルとしていることも、注目してよい。日本刀法の影流もまたそのシンボルを猿としている。これは中国の状況は広州暨南大学歴史系馬明達教授の論文「通臂から通備へ」(『武学探真』所収)に詳しい。日本の影流では、愈大猷の「武備志」の記載でも、猿に刀を持たせ、演武させていることからもそのシンボル性は明らかである。

日本の刀術と中国の体術の両者がどこで交流があったのかどうか、現在の段階では資料の裏づけはない。しかしながら中国武術にあってヒカ拳という拳は非常に異質な感じを受けるのである。所謂内家拳といわれる太極拳を代表とする拳術とも、あるいは少林拳を代表とする拳術とも、劈卦拳の場合にはその発想が根本的に違うようである。

しかし、一方で現在の日本剣道のような、面打ちのクランク運動を繰り返すという方法では実際の重たい刀は操作できないし、まして5尺もある大太刀を操作することはできない、とすれば、現在の剣道から過去の刀術を見るべきではないのは当然である。とすれば長刀には長刀の、現代の、或いは江戸時代の身体操作とは違う身体の使い方、刀の操作法があったはずで、又それを可能にする基本的な体術の訓練課程もまたあったはずなのである。





結論
以上見る限り、“新影流目録”と中国に伝わる“単刀法選”、この両者に極めて強い類似性があることは否定できない。しかしながら直ちにこれが親戚関係であることを結論することはできない。当時の日本側の資料ははなはだ乏しいが、いづれにせよ以上のような技術は特に陰流特有というよりは、日本刀法には比較的普遍的に見られるものだからである。今日伝わる流派の伝書また伝承の多くもまた同様の発想の技術を有するのであって、その違いは大観すれば、文化様式つまり生活様式、服装、その武術の育つ環境、戦闘様式等に由来する個人差、個体差にすぎない。

日本の流派の成立は殆ど室町中期~末期にかけてであり、三大流儀といわれる日本刀術はその殆どを天狗、猿、蜘蛛等の荒唐無稽な開祖伝説を持ち、これはたぶんに朝鮮あるいは中国からの渡来人であった可能性が高い。

戚継光の「紀效新書」の成立はそれからまもなくのことであり、中国に伝わった日本刀術は殆ど一世代目か二世代目のことなのである。しかしながら刀術に関しては、戚氏自身が日本の倭寇対策に頭を悩ませ、その結果導いた戦術論であったとすれば、この時代の日中武芸の交流は、その人の流動とともに、相当活発であったことが窺われる。

現時点としては、全体として日本刀法の影響が中国刀法に大きな影響を与えたことが認められればそれで十分とすべきであるが、将来機会を得れば、現在日本に伝わる刀法と中国に伝わる刀法の関係を詳細に研究してみたいと思う。

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原帖地址http://www.wushu2008.cn/viewthre ... &extra=page%3D1

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如果这篇东西有人能看完。。。那个人就是。。。

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汗,还带原文的
好容易看了一半。。。学了不少东西

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好长好长...
放弃了

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实在是太专业了~没有耐力全部看完。。。
我是LINDA迷

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很专业的一个帖子啊,不知道怎么说了,强烈支持

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有原文的话就当成是复习日文了

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日本刀术岂能跟中国相提并论

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二刀流 嗯嗯 果然这个最帅
好きだから

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兰州大学烧饼系教授马德华发来贺电

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